しろい雑録----carpe diem

暮らしや独り旅、考えたことや読んだ本のことなど。

東京国立博物館は、予約制で

 東京・上野の東博では、桃山展(前半)を開催中だったので、雨のなかを出向いてきました。コロナ禍の中で、とあって、事前に予約が必要で、「なるべく90分以内で見終わってください」との案内がありました。予約制だったので、比較的空いていてよかった。わ。

 「曜変天目」「結城秀康の打太刀」「唐獅子図屏風」などの実物を目にしてみたかったのですが、やあ、見ごたえがありました。

 関ヶ原の戦いの前に、松平忠吉(この戦いでケガを負って若死した)が家康から拝領した具足とか、伊達政宗が秀吉から貰った「銀伊予札白糸威胴丸具足」(かなり変わっている)とか。もあって。

 屏風絵と襖絵がたくさん、それに、茶器もあって、侘びとか寂びとか、その辺の良さを強調されても、わたしには、よくわからない。

 信長と秀吉と家康の肖像画が並んでいましたが、このうち、信長像は、大きな鼻梁 に眉間に皺が入った初見のもので、性格の強さがにじみ出ている作品でした。

f:id:shiroi3:20201017231430j:plain

東博の桃山展

 

発禁になってしまった「武漢日記」

 生まれは南京ながら、幼児期から高校、大学、そして職業生活も通じて、60年余は、焦点の武漢を動かず過ごしているという女流作家の方方女史が、コロナ禍のなかで綴っている日常雑記「武漢日記」が、日本でも翻訳出版されたのはいいのですが、中国国内では発禁となっていると、共同通信が伝えています。

 1955年5月の生まれで、魯迅賞も受けた丸顔で穏やかそうなおばさん風な文筆家です。作風も円満な性格を醸しています。

 「武漢日記」は、この「はてなブログ」と同じように、ブログを通じて日々の身辺の出来事を記録し、ネットで公開してきた記事をまとめたわけなのですが、日本のブログ事情とは違って、ブログの内容について、公開の前に、①ネット検閲を受けている②一部が削除されても甘受してるーー旨の説明を、「武漢日記」のなかでしています。

 つまり、中国でブログを上梓する場合は、当局が内容の審査を行い、方方女史の場合でいえば、そのご威光というかご意向とうか、に逆らうことなく、検閲の目を意識しながら、書き続けている辛さがあるようです。ときには迎合しているなあ、と、うかがわせる記述も散見するわけで、こんなところは、母国というか、祖国というか、中国と地元の武漢を誇りにしている、きわめてまっとうな、わたしにいわせれば、ごくごく典型的な中国人っぽい作風ではあります。

 ただ、ネット規制は通り抜けたのに、なぜ国内出版ができないのかというと、媒体の違いの故だと思う。一方は電子の世界ですぐに消去できる一方、印刷された活字は消えない。

 「ある仮設病院に、政府の高官が視察に来たらしい。数十人が立っており、役人、医療スタッフのほか、おそらく患者もいたのだろう。彼らはみなマスクをつけ、ベットに横たわる患者の一人一人に向かって高らかに「共産党がなければ新中国はない」を歌っている。この歌は誰が歌ってもいいが、どうして病室で高らかに歌う必要があるのだろう?」

 「私はさらに言いたい。役人が仕事に出向いたり先で旗を掲げたり、記念写真を撮ったりしなくなるのいつだろう。政府高官の視察のとき、恩義に感謝する歌を歌ったり、芝居がかったパフォーマンスをしなくなるのはいつだろう」

 あの国では、いかにもいかにも、ありそうなことで、おそらく、こうした率直な記述が、波紋を呼んだのかもしれない。

 肝心のコロナ禍のもとでの暮らしぶりとかへの感想は、別記にて。枝葉のほうに話は流れてしまった。

f:id:shiroi3:20201017013129j:plain

コロナ禍に続いて大増水の重慶(出典は中新網)。重慶三峡ダムの上流域にあにあって、

f:id:shiroi3:20201017013129j:plain

コロナ禍に続いて大増水の重慶(出典は中新網)。重慶は三峡の上流にある直轄都市。

 

ハノイ空港から市内へ、バスで行く①

 

 成田とハノイの間を結ぶ直航LCCとして「ベトエアジェット」が就航しましたので、ハノイを経由して、アンコールワットを見物し、バンコクに出て数日を過ごして、LCCの「エアアジア」で成田に戻る、いわゆる「オープンジョー」の旅行をしてきました。

 最初についたハノイは、とても素敵な街でした。まずは、バスで市内へ向かいます。

 成田からのベトエアジェットが到着するのは、ノイバイ空港の「ターミナル2」です。真新しいターミナルで、まずトイレが何と言っても斬新。外向きの壁が全面ガラスで外が見えます。別の表現では、外から丸見えです。

f:id:shiroi3:20190625151109j:plain

 空港から市内へのバスは、系統がいくつかありますが、わたしの場合は、終着が宿泊先のホテルに近いキンマー(金馬?)バスターミナルとなる「90番バス」を選びました。

 うん、その前に両替です。税関を出て、ターミナルのなかを、左方向に進むと、現地SIMの販売店と両替商が5店ほど並んでいます。ベトナム・ドンは、桁数が大きい異様な通貨なので、ハノイ市内では米ドルの使用を前提に、両替では、日本円3000円をベトナム・ドンに替えておきました。プラスチック紙幣。シンガポールが始めたとても合理的な、正確にいえば、合成樹脂幣。

 ターミナルを出ると亜熱帯の湿気を帯びた暖気が身をつつみます。出口の左手に「タクシー乗り場」がネオン表示されています。ハノイの中央駅に向かう「89番バス」は、このタクシー乗り場の手前にある横断歩道を渡ったところに「89番」の表示があって、ここからバスが発着します。

f:id:shiroi3:20190625155426j:plain

 「90番バス」は、道路を横断せずに、タクシー乗り場を右脇にみながら、ターミナルに沿ってそのまま歩きつづけ、どんどん行くと、ターミナルに隣接のバス発着所があり、バスが並んでいます。「90番バス」が駐車中(この写真の中央部の人影の先に黄色い車体の「90番バス」の上部がちょっと見えます)なら、そのままの乗り込みましょう。改札は、発車後に車内で車掌さんが行います。10万ドン札(!)を黙って差し出したら、お釣りがたくさんきました。バス料金は9000ドン(50円ぐらい?)でした。

 

<@aol.com>を教えて、<WeChat>を教えてもらったの巻

 先般、バンコクスクンビットにある宿泊先の高層ホテルのバーで、夜半、寝酒代わりにメコン・ウィスキーを独りで味わっていたところ、隣席からひとつ隔てたカウンターチェアーに、明らかにその筋ではなく、日本女性でもなく、軽装の若々しく、朗々とした女性(30歳代の後半?おそらく)が、おずおずといった挙作で腰をかけ、マティニを注文したのものだから、つい声をかけてしまったわけで。

 最初は英語で、すぐに英語で返しがあり、つぎに普通話で尋ねると、(浙江省の)温州から、部下(女性、念のため)とともに、ビジネスで、バンコク入りしたのだとか。バーに入ったのは、同僚を待つため。香港でも台湾でもなさそうと思っていたのだけれど、やっぱり、ね。わたしに応じたのは、だれがどう見ても、人畜無害な日本人とわかるから。へへへ。

 父親が温州で製造業を営み、連れ合いはカナダ人で、自分の家はバンクーバーにあって、いまは温州に戻って、仕事を手伝っていて、タイでの商談のあとは、マレーシアに回るのだとか。つまり輸出業のバリバリの方だった。

 6月23日付けの日経朝刊の一面は、中国の貿易収支の経常黒字と対外純資産の乖離額の大きさに、今更のように(日経が)驚く記事なのだけれど、ある期間の経常黒字が<100>とすると、それに相応する期間の対外純資産の伸びは、わずか<35>に過ぎないのだとか。いくら他国のこととはいえ、日本のように、経常黒字と対外純資産の増減が連動する国の識者から見ると、「なんだかなあ」という気持ちになるのは、当然ながら、日本とは人民の知恵のまわり具合が違うのだから、良い悪いの問題ではない。<100>の残りの<75>は、「何らかの手段で海外に残りどこかに消える」(日経の表現)のだそうで、例えば、小さいところでは、上記の方のバンクーバーの自宅とか、なのかも。

 「日本人は、唐の時代が大好きでしょ。皇帝は私と同じ姓(李さん)」

 わたしは、ほどなく西安にある則天武后の無字碑を見に行くつもりだったので、そのことを伝えると、無字碑のことを理解していて、西安への旅程が定まったら知らせてほしい、と、嬉しくもいってくれた。

f:id:shiroi3:20190623115819j:plain

バンコク・ヤワラートの中国大酒店

 話がはずんで、バンコクにおける「ファラン」は、「花郎」ではないとか、ヤワラートの中国大酒店は、かなりおもしろそう。とか、どうでもいいことを教えてしまった。

 後から会話に加わった部下が、こっそりささやくには、「彼女の家(会社)は、お金持ち」。やっぱり。

 中国国内では、現在のところ、<Google>ならびに<Gmail>は、不安定で、<facebook>や<twitter>とか、<Line>も利用できない。<Yahoo!>もあやしい。それで、別れ際に、<@aol.com>のメルアドを伝えたら、「そうか、その手がありましたか」と喜んでくれて、数日後に、自分も<@aol.com>に参加した旨のメールがあった。

 こちらは、「西安にいくのなら」と教えてくれた「微信(WeChat)」と「百度地図」、「滴滴」の3大アプリを、スマホに入れたので、こちらも無問題。

f:id:shiroi3:20190623121011j:plain

微信

f:id:shiroi3:20190623121102p:plain

百度地図


 

 

「猿と呼ばれて」についての考察

    ちょっとふるい2011年11月のアジア・カップの準決勝終了後の話ながら、韓国サッカーの奇誠庸が、日本の対戦相手と応援のみなさんを蔑むにあたって、「(日本人は)猿みたい」と、それなりの動作、つまり猿真似的な身体表現をしたのは、自分たちが対戦相手の日本チームを破った高揚感から生じたことに、疑いはないのだけれど、無意識に、ついに出てしまった「猿」という侮りが、それだけ、もしかしたら、このサッカー選手を含む若い世代に限ったことなのかもしれないのだけれど、誰もあからさまにいわない韓国のみなさんの日本に対する心情的な侮蔑感を、垣間みせたのかもしれない。これは、なかなか興味ぶかいものがあるので、しばらくこのことを考えていました。

f:id:shiroi3:20190621111803j:plain

奇誠庸

  逆に、こうした局面で、日本の若いサッカー選手が、敢えて、韓国の人たちに与えるかもしれない侮りの表現をするとなると、あえて禁句に触れれば、考えられるのは、声にして罵る「チョウセン野郎」ぐらいで、動物を表した例はちょっと思いつかない。まして、身体的な表現となると、まずないのだろう。

 

  韓国のみなさんが、日本人を「猿」と見なしかねない理由については、かねてから、以下のような指摘がありました。

  韓国には、野生の猿が生息していないので、(野沢温泉なんかで入浴する)猿と共存する日本人の生活ぶりが印象的であるうえ、ことさらこうした情景を対外的に観光宣伝している以上、「日本人は猿である(のかもしれない)」という断定に加えて、日章旗は、猿の尻が赤いことに由来している、とか云々。

  まあ、噴飯ものの解釈なのですが、上記のサッカー選手の挙動は、日本に生息する野生の猿というよりは、より知能が高いとされ、動画での記録はもとより、動物園やサーカスでもいい、一般的に実際に目にすることができる猿となると、日本でも韓国でも、チンパンジーとなり、それを真似ているわけで、たとえば、原田眞一の映画「関ヶ原」で、秀吉役の滝藤賢一が演じた豊臣秀吉が、石垣のうえで一瞬見せた剽げた挙作(予告編でみることができる)は、日本猿というよりは、チンパンジーのそれでしょう。秀吉は、ほかならぬ「猿」という蔑称を得た日本の歴史上で唯一ともいえる人物ではあるのですが。

 

f:id:shiroi3:20190621111921p:plain

滝藤賢一

  さて、フランスの小説家ピエール・ブール(1912~1994)は、若いころ英領マラヤにわたり、ゴム園の現地管理者として、植民地経営に参画していたのですが、帝国陸軍の侵攻作戦で、英仏の植民地支配が崩壊したあと、自由フランス軍に参加して、ゲリラの一員として、現地での対日工作にあたるうち、帝国陸軍の捕虜となって、サイゴン(いま、ホーチミン市)の収容所におくられています。

f:id:shiroi3:20190621122203j:plain

ピエール・ブール

 戦時捕虜ではなく、ゲリラとしての捕虜だったはずですから、その取扱いは、過酷だったはずですが、幸いなことに、終戦が迫り、というか、日本の敗色が濃くなった1944年に、外部からの手引きがあて、収容所からの脱出に成功しています。

 ピエール・ブールが、戦後に出版した作品は、著名なところでは、「戦場にかける橋」、そして「猿の惑星」。どちらも映画化されていますが、「猿の惑星」は、シリーズ化して、近年も公開が続いています。

 いうまでもなく、どちらの作品でも、それまでの自分たちの白人優越の世界観なりを壊す、自分たちを超える存在があることを明示しているわけで、戦時下の帝国陸軍との闘いと捕虜としての過酷な境遇を体験したことで、主題が生まれたはずです。

 とくに、「猿の惑星」で示した「猿」の存在は、だれもはっきりとは言及しないし、できないのだけれど、日本人を想定してしていることは、いうまでもないことで、ピエール・ブールにとっては、「日本人は、自分たちとはちがう、猿」というわけです。

 

   インバウンドでもなんでもいいのだけれど、韓国人になんにしろ、外国人が、日本に至り、われわれ日本人を眺めるとき、「あれは、猿のごときもの」という感情がどこかに宿っているのかもしれない、と自覚しておいてもいいのかもしれない、と思い至ったわけで。

  と、書いたところで、会津若松飯盛山にある白虎隊の史跡で、自刃した少年たちと同じ年ごろの中高生たちが、石碑によじ登って騒ぐにつけ、地元の方が「(あれでは)猿そのものだ」と喝破したことが某サイトにあって、つい笑ってしまったのであります。

 

 

老いて、なお健筆

 1925年生まれ、94歳となった橋田壽賀子さんが、5月から日経の「私の履歴書」に登場して、自分の半生を綴っているわけなのですが、衰えを少しも見せない異色の「出来栄え」の半生記になっています。

 この12日に95歳で亡くなった京マチ子さんとのうっすらとした関係あたりから、90歳を超えた往年のみなさんの暮らしぶりもうかがえるので、メモ代わりに記します。

f:id:shiroi3:20190529121319j:plain

京マチ子

 橋田壽賀子さんは、現在は、海抜400mほどの熱海の丘の上に設えた3階経ての自宅で過ごしているはずです。景観に恵まれ、2階に温泉を引き、3階が仕事部屋になっている、と自書で紹介しています。来客の宿泊のために別棟を用意しています。しかしながら、利用するゲスト方の来訪は、すでに絶えているように見受けられられます。

 嫌われ女優代表の1947年生まれの泉ピン子さんも、熱海在住なのは、橋田系だから。

 で、京マチ子さんのとのことに戻って、京さんは、都心のマンション住まいでした。このマンションには、1926年生まれで、橋田壽賀子さんの盟友、TBSの石井ふく子さんが暮らし、奈良岡朋子さん、若尾文子さんらも居住しているそうです。正月ともなれば、みなさんは、石井さんの居室に集まり、新年を寿ぐのが通例だったのだか。

  橋田さんや石井ふく子さんたちは、独り身で、それなりの半生を過ごして、老境に至って、先立った京マチ子さんの場合は、事が公になる前に、自分たちだけが寄って供養したそうです。

iPhone SE

 いまのところは、もう後がない一番安い<iPhone SE>。SIMフリーにして、UQやってる。でも、ソニーフェリカチップが入っていないので、「ピッ!」ができない。

 <Apple Watch 3>が、カバーすることがわかって、このほど導入しました。

 <Suica>もオートチャージで、問題ナシのはず。。これで、わたしも、キャッシュレス決済ができるわい。

 しかしながら、SEの場合は、2台で一人前という<Apple>陣営の至らなさというか、うまい商売というか。

 

f:id:shiroi3:20190412145244j:plain